昭和45年10月01日 月例祭



 数日いよいよ、しみじみと秋を感じるので御座いますけれども、ついなんちか前迄は、部屋にはクーラーが入り、扇風機が回っておったのですけれど、何かそういう今日も先程、出がけにえらい今日、今晩は静かなごたると言うて、それはクーラーが止まってるからですよ、というて、うんそうかもしれんなと。まあそれだけではないでしょうけれども、何とはなしに静かな矢張り、秋のたたずまいというものが。
 矢張り御広前一杯にこう広がって本気で、言うなら勉強が出来るというか本気でしみじみと、信心の味わいを頂かせて頂ける、いわゆるシーズン好シーズンになった訳で御座います。そういうまあ天地の働きのすさまじいまでの、その様な働きの様に、又私共御道の信奉者取分け合楽で、この様にして信心の稽古を致しております者の上にも、そういう一つの時節の変わり目の様に、一つの変わり目を最近感じております。
 これはすさましい事になって来たぞとまあ、思わせてもらうのです。いや又すさましい神様の働きが受けられる、神様の段取りというか、その様なものを最近、ひしひしと感じます。そこでいよいよ感じさせて頂く事はね、本気で神様に身も心もまかせきれれる、いわゆる教祖「神にみまかせ」と仰せられる、その「神にみまかせ」が出来れる、信心を頂かなければならないなと、言う事で御座います。
 中々ね「神にみまかせ」身も心もいわゆる全身全霊を、神様にお任せしての生活。もう私はお任せしとりますけん、もう楽な事です。成る程そうだろうと、けれども任せると言う事はね、そんならこのただじーっとしとって良いと言う事ではないのです。ね、神様のお心が分かり、神様の願いが言わば聞こえて来る、思いがしみじみ分かって来る。分かってくる所から、いわゆる活動が始まる。
 神様のいわば声のない声というか、その様なものが響いてくる。じっとしてはおられない。という信心なのですからね。任せるという事は。皆さんがあの辺を間違えるといけんのですよ。もう神様にお任せしとるとが一番よか。まかしときゃ、じっとしとってよかごと思うとる。だから本当の「神にみまかせ」と言う事はね、もう天地の親神様と一体、生神金光大神と一体、と言う事なんです。ですから、これはもう絶対の安心立命のおかげが受けられると言う事。
 まあそこでね、まあ、皆さんが感じておる様な任せる所から、稽古がさせて頂けるわけです。お願いをした。右がよいと教えられた。お願いをした、左がよいと教えられた。ただその程度の事が神様まかせじゃないけれども、矢張りこれは稽古の手始めだ。任せる稽古の手始め。そこからね神様まかせになる事の有り難さ、というものが体験付けられて来るわけで御座います。それが繰り返し繰り返し、成る程、神様まかせになっておる事が一番有り難い道が開けるのだ。
 人間の幸せというのは、ここにあるのだと言う事が分かって来る時にです、初めて神に、いわゆるみまかせという信心が出来ます。神に心まかせ。例えていうと眠たいからもう一っ時寝たいけれども、神様が起きれ起きれと仰るから起きらなければなりません。任せる、あるんですから。それよりも寝たい放題に寝る事が任せる様に思うておる様な事ではない事が分かりますね。いわゆる神様に神様に身も心も任せると言う事は、もうそこにはね。神様と同じ思いというか、神様とおんなじ働きというか。
 もう神様と一体になったものを感じさせて頂けれる程しに、おかげを頂けた境地が私は神にみ任せした者の、人の姿だとこう思うのです。今日の神様任せは少し難しいですね。ですからそこでです。私共がね、その任せるからにはね矢張りこの人、んなら任せてもよいというね、その信ずる力というか、信ずる心が動いて来なければ任せられない。まあ神様任せという事は、親先生任せだと、その親先生任せになる事ですから、この親先生がいうとおりにしよったら。
 もうどげな事になるじゃ分らんというて、初めから疑ってかかったら、又これもだめなんです。先生にはそう言いなさるけれども、そんな分けにはいきません、という訳にはいかんのです。そこで先ず私が所謂親先生の信心の研修が必要だと言う事になって来る。信心の共励をするというても、研修をするというてもです、私はね結局は皆さんは、親先生の信心を研修する以外にはないと私は思うんです。親先生が頂いて御座るおかげ頂いて御座る信心、それを研修する以外にはない。
 それを共励する以外にはない。そしてです成程が付いて来る。合点がいって来るそこから少しずつ任せる稽古をさせて頂く。最近いわゆる願いという信心が、信心の最高峰だと、毎日頂いております。信心の内容のね、素晴らしい内容の信心の素晴らしいと言う事はね、願えれると言う事。又それを願うと言う事、それが信心の最高の信心だと。お礼の信心、お詫びの信心、又、願いの信心。いうならその願いの信心は非常にその、その意味では、軽く見られておる。
 願わんでも頂けれる、おかげを受けなというのであった。そこで詫びて行くと言う事、又はお礼を申し上げると言う事、詫びると言う事は、自分が例えば教えに基づいた日々というものをです。振り返ってみるとです、例えば今日、前講を末永さんが務めておりましたが、先月のここの焦点である所の全ての事を有り難う御座いますと、受けていけれる自分になろうと言う事でしたね。
 そこで本気でその事に取り組んでみた、全ての事をもう何もかもが有り難う御座いますと、受けて行く事に焦点を置いて、日々の信心の稽古をさせて頂く事になって来たらね、もう余りにも今までの信心の育ちであった事に、愕然とする程、感じた。今までそれを、有り難うどころか、みんな不平本気やら不足やら、まあやっとかっとで受けておったという自分に気が付いた。全てを有り難う御座いますと、受けて行くと言う事は、この様にも難しいものだと、初めて気が付く程しに感じた。
 ですから、取り組んだ者じゃなかな分からん。皆様どうでしょう、先月のその焦点に取り組まれて、何を感じられただろうか、やっぱり、先月も先々月も同んなじであったと、例えば、本当に今の末永さんの発言ではないですけれどね、それを感じた初めてです。その焦点を置いて、信心の稽古をすると言う事が、尊い事だと言う事になって来る。今月の焦点は「天赦願」と、皆さんもう受けられましたでしょうか、今日出来て来ておりますか「天赦願」ね。
 天が許した願いという、その天赦願、願いにね、本気で取り組んでみなければです。その天赦願と言う事の意味は分かりません。取り組んでみて、いわば目の粗い事に驚く、そこん所を目細もういうなら稽古して行こうと、こう言うのである。 そこでね、今月のいわゆる焦点である「天赦願」をどの様な願いで、一つ頂き抜かして頂こうか、どういう心構えがいるか。願うからにはどうでも、おかげを受けなければならない。おかげを受ける事によって、成る程という神様へのいわゆる確信が段々出来てくる。成る程、親先生が言う事が本当だと言う事になって来る。
 そこにです親先生に任せるというか、神様に任せるというかもう本当に身も心も任せれるという、所謂御まかせの信心が出来て来るので御座います。だから願った事が成程、核心付けられる程士のおかげになって現れて来なければね、願うたっちゃおかげを頂かん。おかげを頂かなかったら自分の思う様にならなかったら又思い以上のおかげにならなかったら、任せろと言われても任せられないのが本当だと言う事になる訳です。
 今日の私が言う、もう任せると言う事は、もういわゆる身も心も任せると言う事は、そのまま神様と一体だと言う事、神様と一緒になっているともう身も、体だけは任せてから心は、ずれておるというのじゃない。心だけは任せておるばってん、まだ体は別と言う事でもない。もう身も心も任せてあるのだ。そういう、そんなら、まかせさえすりゃいいですねという訳にはいかん、任せられない。
 それは様々な問題が御座いますが、その問題、例えばその何でもない事なら任せられるけれどもね、身も心も任せると言う事はそう簡単に出来るこっちゃない。しかも身も心も任せると言う事は、任せときゃ、棚からぼた餅が落ちて来ると言うのじゃないのだから、任せた以上神様と一緒に動かなきゃならんのだから、眠かってもさあ神様が、さあ起きるぞと仰ったら「はい」と起きらなならんのだから。ね。
 任せると言う事はそう言う事、それがねもう身も心も任せてあるので、それが楽しゅうて楽しゅうて嬉しゅうて嬉しゅうてそれが出来るという所に、信心の本当の有り難さと言うものがあるんです。その為には一つ願わなければならない。願ってそれがおかげにならなければならない。そこで願いと言うものはお互い沢山持っておる。そこでまあ願いの内容というか、願いの検討がまあされる訳なんだけれども、いわゆるまあ難しく言うと神の願いが、神の願いと私共の願いが一致しておるかどうかと言った様な事。
 まあ繰り返し申しますけれども、これはまあ繰り返し言わなきゃならんから、どうぞ皆さんも本当に繰り返し聞きながら、一つそこん所を少しずつでも分かってもらわなきゃいけません。神様の願いと、私共の願いが一つになる願い。そこでならこの事だけは、間違いがないというのはですね、世のお役に立たして下さいという祈りが高まって来ると。世のお役に立ちたいという願いが高まって来る、その世のお役に立ちたいと言う事が、神様の一番、お喜びであると先ず分かった。そこで世のお役に立たして頂く願いと言う事は、もう神様の願いと同じだと言う事になって来る。ね。
 そこでお金も欲しい、健康も欲しい。全ての人間関係のある、人間関係の上にもです、円満な生活を送りたい。そういう一つの基礎、土台というものが出来て、世のお役に立たせて頂くと言うのですから。その為に健康も願ってよい事になり、金銭のお繰り合わせ、言うなら億万長者にならして下さいという願いも又、よいと言う事になる。お役に立ちたい一心なのだから。
 そこで願ってみた。願ってみた所が、そのどうぞ億万長者にならして下さいという願いだけはね、えらい強く出来るんだ。所がね、世のお役に立たして下さいと言う事はね、その様に一緒になって出て来ない。人間て本当にね、そんなもんだ。世のお役に立ちたいと。その一念と、億万長者にならして下さいというそれ、その思いがね、いわば平行する、同じになる。そこからね、一応、億万長者にならして頂きたい、下さいと言う事もまあ、願われると言う事になるんです。
 しかしまあこれはまあ、一つの理想なのである。けれども理想だからというて、放っておくわけにはいけんと。矢張りそれに近づかせて頂かなければならん。そこでね、いわば願いの信心が願いが立てられる。の願いが聞き届けて頂けると。今朝の御理解の中に、昨夜菊栄会の方達が全員、満雄さんを置いて全員集まって居りましたから、集まってちょっと菊栄会の方達に、まあ色々私の信心の話をきいてもろた。又聞かせてもろうた。その中に、菊栄会の会長である所の正輝さんが、此の様な事を云うておる。
「ここの御造営が始まった時、文男先生と私共は二人でこういう話を致しました。どうでもこうでも、御造営にお使い回し頂こうじゃないかと、本気で御願いさせて頂いて、御造営に必要なお金を沢山のお金が要るのですから、一千万なら一千万のおかげを頂いたら、もうそのままそっくり、お供えさせて頂こうじゃんのと言うて話した。二人でその事を本気で考えた。本気で願った。所が先生、今から考えてみますとです。
 その願いが成就していないと言う事、又その先日から先生のお話を頂いておったら、甘木の先生が偉大だと言うお話を私がした。甘木の初代は偉かったなとというのは信者の中にです、沢山もう一切があなたの御物として覚悟の出来ておる信者が育っておると言う事である。例えばおかげ頂いた。そん時はもう涙の出る程もう今年は大変なおかげを頂いたと喜びよった。所が段々年の去って行くに従って自分のやりようの良かったけん、儲けだしたごたる気になって来た。そういうのは世の中ここにも沢山あるとです。
 所がね、甘木の場合現在育っておられるね、皆さんが知っておられます。あの千代町の大丸さんとか、平田会長なんかというのは、それでしょ。それこそどれだけ財産を持って御座るか、分からんけれどもです。それが何時の場合でも、神様の前にのしがかけられておると言う事。一切が神様の御物だとしておられるという事なんです。そういう信者をね、いわば育てておられると言う所にです、甘木の初代の偉大さ、偉さがあったなという話をした。その話を聞かせて頂いた時ですね。
果たして私共がね、そんならおかげは頂いておるけれども、それを神様の御物として頂いておるかどうかと言う事を思うとです。いうならば(ざんき)に耐えないと言う訳なんです。成る程けなげな願いはした。御広前建立の事の為にです。今から一心発起をさしてもろうて商売の上にもお繰り合わせ頂かなきゃならんと。そして一千万なら一千万の、一千万というと、その当時やっぱたいした金ですからね、初めの間はまあ、二千五百万が三千五百万位な事から始められたんですから。
 いうなら1/3を二人でおかげ頂こうと思うたんですから、大変な事なんです。やっぱり。今の一千万じゃそう感じんけれど、いわば四、五年前の一千万なのです。ここの御造営が始まった時分の一千万円。ですから、如何にも神様がね、それは聞いて下さらなければならない様な、一つの筋道は立ってるんだけれども、神様も聞いて下さらなかった、自分達も又、実際は実行が出来なかったと。
 もし頂いておっても恐らく実行は出来ていなかっただろうと。そういう意味の話をしておる訳です。だからそれはそうだろうと私は申しました。あの時分にはねそういう願いを立ててですね、どうぞお繰り合わせを下さい。そしたら御造営費に献納させてもらいますと、言った様な中には田やら畑を売ってでも、御造営におかげ頂きたいという人が願いに見えたけれども「そげな事はいかん」と神様がお断りなさったですから。
 家も屋敷も売ってからお供えするという人があったんです。けども神様は断りなさった訳です。と言う事はどう言う事かというと、当時言われて来た、言うならついこの頃まで私が云うて来た。信心とはもう本心の玉を研く他にない、改まる他にない、限りなく美しゅうなる、限りなく豊かに大きくならせて頂こうと、とにかく「和賀心」を焦点として、そういう様々な信心をさせて頂いて来た。
 そしてね、そういう心の状態というものをつくる事に一生懸命になって来た。いわば願わんでも頼まんでも、そういう状態になれば、おかげが頂けるんだと確信して、お互い二十年間信心を続けて来た。だから神様はね、そういう和賀心の中に生まれたもの、その和賀心で受け得たもの。それがこの御広前です。ここの私はここのご建築というものはそういうものだと。願って願って言うならば、いわゆる正輝さんのそれじゃないけれども、私の事業なら事業仕事なら仕事の上にもおかげを下さいと。
 一千万特別ころっとおかげを頂きゃぁ一千万そのままお供えします。いうなら百万円の宝くじに当てて下さい。当たったらその中から十万円私に下さいとそんなケチなもんじゃない。そのままをお供えさせてもらいますと言った様なですね。まあこれは極端な例になりましたが、と言う様な、いうならけなげな願いを立てたんだけれど、神様が聞きなさらんかったのは、まだ合楽の場合ですね、まだそこまでの段階ではなかったと。神様にこっちを向いて下さいと言うたけれども。
 神様はこっちを向きなさらんかった、そういう願いでは。所が今日(こんにち)は違う、今日は私共がそういう例えばそんなら正輝さんと文男さんが話し合った様な願いをです、いわゆるね、お役に立ちたい一念が一心がある、億万長者にもならして下さいと言う事の願い。とてもそれが切実だった事だけ私も感じます。二人の者がですよ、話し合った、それももう、本当にそれはもう本当にね、家内にも聞かせられない、誰にも、二人だけが、本当にそれを話し合えたと言う事は、素晴らしい事だとね。
 けれども、その事を神様は、その方へ見向きもなさっておられないと言う事。そういう願いで立てるのではなくてです、いわゆる、和賀心で立てるという、御意味あいであったと言う事。そういう信心を一つ基調として、これからは願える。願いと言う事は此の様に有り難い事だ、此の様に素晴らしい事だ、願いと言う事が、神様の又、願いでもあるのだと、言う事が段々こう分からして頂いてからですね、そんならその様な願いをその様な切実さを持って願うとするなら。
 世のお役に立ちたいと言う一念が、そういう願いになって来るならば、この願いが神様がもうこちらを向いて御座ると。聞き届けなさらんはずがないというのが、今日私が言っておる願いなんです。所が先程も申します様に、億万長者にならして下さいは、中々一心が立つけれど、世のお役に立ちたいという、一心の方はは中々立たないと言う事。そこにね、願いの難しさがあるのだと。
 そこで、そこでです、願えば必ずおかげになる。願えば必ず神様がおかげにして下さる、という確信を得る為に一つの身近な所から、これならば間違いがないと焦点を置いてそれに願いをかけていけと、こういうのある。今月はいよいよ大祭月。ね、いうならば大祭にです、此の様なおかげを頂きたいという一念を燃やして願って行く。米十俵お供えさせて頂たいからと、どうでもというて、願ってご覧なさいと。
 本気で。薦包みの酒樽をお供えさせて頂きたいと本気で願いなさいと。 今度の大祭に、百万円の云わばお供えをさせて頂きたいと、本気で願えと。もうあらあらあるんです。実際は。そういう願いを立てておられるお方が。だからね、この事は神様が喜びなさる事に間違いがないから、その事にいわば、今月の一番身近な事はそれなんです。そうしてね、神様は例えばこれは、私の過去二十年前の話なんだけれど。
 神様が大祭とか、御本部参拝と言う時には、どうしてこんなにお繰り合わせを下さるのだろうかという思う位におかげを下さる。いわば私は二十何年前に、そこに体験をして来とるんです。神様の事神様の事だったら、こんなにの間違いのないきちっとおかげを下さるという事は、どうした事だろうかというのでこちらの例えば他の願いもね、神様が喜んで下さる様な願いに立てばおかげ頂けるという神心がこれはおかげ頂けるな、という確信が生まれて来たんです。
 だから願った事がおかげになるという、それには身近な事手近な事、神様が絶対喜んで下さる事の手近な事から、ひとつ願いを初めてみる。成る程願えば神様が聞いて下さる。私は今日、四時の御祈念に、この頃三十分間の四時の御祈念のこの頃、願いが始まったら一時間になった。とても三十分間じゃ願いがしまえん。ずうっと願わしてもらう。もうそれも神様が一つひとつ、合点して下さる所まで願わしてもらう。そしたら神様からね、あの願いを終わらして頂いたら、神様からね「家内が若返るように願え」と仰った。私はいよいよ、おまえも年とったねぇ。おまえはそげな若か気持ちの。
 大和さんのところの昨日、報告祭でした。一緒にご案内を頂いとりましたけんで、昨日仕立て下ろしちゅう着物を着とりました。ところが自動車で私の横に乗っとるばってんが、これはよそのおばさんのごたる感じですたいね。私と釣り合わんとですたい。あんまり若かつ着とる。顔だけはばばさんのごとしてから、若か着物を着とるもんですからね。やっぱり釣り合わん。まあそう言う事だったからかもしれませんけれども、急に「家内が若返る様に願え」と仰る。皆さん願わにゃいけませんです。
 こげんとならば切実ですよね、お互いが。おそらくその若返るというても、そげん若返りのホルモンば飲むっちゅう訳でもなかっじゃけんで。結局やはり、心が若返えらにゃいけん事を願えという事なんだ。心が憔悴しておる。心が枯れておる、心に水水しさを物が無くなった水水しさを願えと神様は仰って下さったと、私は思わせて頂いておる。降りてからすぐ私は家内に言いました。
 今日は神様からおまえが若返られる。というてからそう頂いたと。そしたら自分もうれしいごたる風じゃった。けど先ずねその為には自分の心がね、水水しゅうならにゃいかんのですよ。やっぱね只もうおしろい付けたり、紅付けたりする事だけで若返ったんじゃつまらん心が矢張り若返えらなきゃならん。そういう例えば切実な願いが。そこでです、私共が世のお役に立たして頂きたいという一念。
 親父だけはその一念に燃えとるけれども家内があなたのごと、そげん一生懸命なさならんでもよかじゃのというたら、もうそれまででしょうが。家内がどげん一生懸命なったちゃ、親父の方が付いてこんならだめでしょうが。そこでね一番願いの切実な願いをですね、私は今月はどうでも、家族がね、勢を揃えて一様に活き活きとした、信心をさせて頂くと言う事をねがう。これがね、これから先様々な事を願う。健康の事、人間関係の事、経済の事。
 そして世のお役に立ちたいという一念を燃やして、願っていくという事の為にですまず家庭が勢を揃えての信心にならなければならない。家庭が不和問題がある様な事では世のお役に立てないという見地に立ってです。子供のいわば信心を願える家内の信心主人の信心を願うていけれる。これは切実になって来るのですだいぶん皆さんも。そりゃあ皆さんがどげん世のお役に立ちたいと云うて、立てようとなさってもですね、子供なり家内なり主人なりがね、それを引き落とす様な事を言うたらもう出来んのですから。
 だから家族を上げて「そうですね」というて、世のお役に立てれるだけの信心をです、先ず願えと。これなら願いの根本になるもの、私は今日その事を本当に気付かせて頂いた。「家内の若返りを願え」と仰ったが、これは家内の心に水水しさ、いわゆる若々しさというものをです。いわゆる元気な心を願えと云うて下さったんだと私は思わせて頂いた。はあ、この願いならばお互いが切実に。
 今日は、今日の月次祭はここん所を聞いて頂いて、一つ本気でこの事を、今月の願いの焦点、又は今度の大祭、二十日に仕えられる所の大祭に、例えばおかげを頂きたいという一念を燃やして、そこに焦点を置いての、例えば願いと言う事であったらばです。例えば喉に詰まる様な。原さんじゃないけれど。と言う様な事はなかろうかと思うんですが。どうでしょう、それも願ってみなきゃ分かりません。それでもまだ、尚且つ喉に詰まるごたるならばもちっと、その願いの程度を下げてみる事もよかろう。
 けれどもお互いが信心のおかげを頂かして頂いておるのですから、御本部参拝の事やら、又は御大祭を迎えさせて頂く私共の心構えとしての、信心がです。どうでも要ると言う事を実感するならば、先ずその事を願え、それがいうなら願いの根本になるのだと、私共の願いの。そうしてです成る程神様が喜んで下さる様な事は、此の様に確実におかげにして下さるんだという、自信が出来る。
 確信が出来る、そこから私は本当の意味に於いての、神に御まかせ、身も心も任せられる所の、信心が生まれると思う。信心の目指し信心の目標というのは、いわば言うならば安心立命、日々が有り難い、もったいないという生活。それには私共がもう全ての事を任せきっておれれるという生活なんだと。と言う事は、そんなら只、私は任せておるけん、棚からぼた餅が何時か落ちて来るだろうと言った様なものじゃなくて、任せると言う事は、神様がさあ起きなさいというたら起きらなきゃならんのが任せるのだ。
 さあ寝なさいちゅうたら、いいえまちっと起きとくちゅうても起きとったら出来けんと言う事なんだ。そこで神の声を聞き神の心が分からなければ、寝れ起きれという事すら、分からんのだと言う事になるですね皆さん。どうぞ一つ願いが愈々切実な願いになって参りまして、しかもその願いが神様がお喜び頂ける願いになって参りますと、愈々ギリギリの所一家中を上げて、親先生まかせになっておけば間違いない。
 だから親先生が言われる事ならば、そこに抵抗なしにその事が聞いて行かれれる、一つおかげを頂かしてもらおうと言う事になって来る様なおかげを頂きたいと思うので御座います。御本部参拝も、もういよいよ三日ですから、どうぞお話があっとりましょうけれども、明日まで位はいいんでしょ。お初穂は。もうとにかく皆さん、本当に事務所の方が困りますです。行きがけにバタバタしたんじゃ。ですから早くね、あのお初穂を出される方は出して頂きます様にお願い致します。
   どうぞ